Sunday, May 27, 2007

前任校の運動会で

5月の日曜日のポコ・ア・ポコは13家族のみなさんに来ていただきました。会場はほぼいっぱいで拍手の音が大きい! 大勢でしたが“静”の時間を見事につくることができてすごい!と感動しました。お越しいただく子どもたち、みなさんに感謝しています。

午前中は松阪市サマースクールのボランティア養成講座で「ともに生きるということ」をテーマに話をさせていただきました。豊かな地域づくりにおける個人の“力”の大きさと活かし方について現在の私の考えを述べ、また、担任の頃のコミュニケーションに係わる実践例を紹介して発達障がいの子どもの支援につながるテクニカルなヒントの提供という内容です。担任の頃の授業のビデオは4年も前のものでしたが、なつかしいというだけでなく、教室で子どもたちといっしょに過ごす毎日の意味や価値の大きさをあらためて思いました。午後のポコ・ア・ポコも含めて、これからの自分のキャリアに思いを巡らす一日でした。

今日は今の自分のどこにこんなエネルギーがあったのかと思うような一日でした。家に帰っては夕食を作りながらのキッチンドリンカーでほっと一息です。

昨日は前任校の特別支援学校(養護学校)の運動会に行きました。準備体操はかつて私がシンセサイザーで打ち込んだ音楽を使っていました。私がいなくなってもそうして“作品”が残っていること、そのこと自体に私は動揺のようなものを感じてしまいました。子どもたちの笑顔がせめてもの救いでした。自分が作った音楽が自分の手から離れて知らないところで奏されることの文脈を初めて知りました。

先週、殉職したSATの隊員の告別式を報じるテレビからX-JAPANが聞こえてきたことを思い出して、X-JAPANを聴きながら帰ってきたことがありました。ニュースによると告別式で好きだった音楽を流したとか。X-JAPANは私も好きでベストアルバムはいつもアテンザに積んでいます。X-JAPANは自分を追いつめる息苦しさを感じます。SPEEDもそうです。私がアイデンティティを感じるのはそこだと思う。クラシック音楽も緊張感が高いほど好きでアルゲリッチのピアノがたまらない。オートバイも自転車も乗るならロードレーサーしか考えられない。あのSATの隊員もそうかも知れないと思う。

Sunday, May 20, 2007

PAの音に酔う

今日出席した知人の結婚披露宴はAV面の演出に興味津々でした。ホールにセットされたPAのスピーカは4台でサイズは25cm程度でしたが効果は抜群で音・音楽の力を思い知らされました。PAシステムのあの音に酔うような感覚がありました。選曲はセンスが問われるところですが、これは定石と思いながらも次の曲が楽しみでした。手を伸ばせば触れることができるようなPAシステムの音は魅力的です。先日買った『サウンド&レコーでディング・マガジン』(リットーミュージック)5月号は音作りの世界に私を誘います。付録のCDに収録の清水靖晃のアルトサックスも音そのものに惹き込まれそうなパワーに圧倒されます。アコースティックの須川展也と対極にあるかも知れませんが私にとってはどちらも魅力的です。

フランスの新しい大統領が決まって式典などをニュースで見ました。まるでファッションショーのようなシーンもあって見入ってしまいました。政治的スタンスはともかくヨーローッパの政治家は魅力的です。私にはミッテランやコールはその典型ですがふたりとも過去の人です。演説するミッテラン大統領を後ろから撮った映像は彼が長い脚を逆V字形に大きく開いていて意志の固さを表しているように思いました。コール首相はベルリンの壁の崩壊前に東ドイツ国民を西側に見返りなしに通過させると伝えたハンガリー外相の前で涙したというエピソードが脳裏に焼き付いています。

Amazonのマーケットプレイスで注文していた村松英子の本が1冊届きました。『こころの花』(講談社 2003)で、届いてみればサイン入り初版本でした。詩集『一角獣』(サンリオ 1973)は1977年、大学1年のとき買ったように覚えています。この中の「欲しい」(1971)に惹かれてもう30年になります。このところ昔のものを持ち出していますが『一角獣』はいつも新鮮で懐古的な心境にはなり得ません。むしろ血を沸き立たせます。音楽もいいけど文学もいいとしみじみ思う。

このところ身近な人が癌と診断されることが続いて日本人の死因の第1位が癌とのメディアの報道にただごとでない状況を肌で感じています。これから自分は何をするべきなのだろうと様々な視座から考えてしまいます。命あるうちにしたいことはしておこうと、これは前々からのことです。

PowerBookのACアダプタのコンセントを欠かしてしまって太いコードを接続することになってしまいました。何かと評判がいまひとつのACアダプタなので、この際とサードパーティーの代替品を調達することにしました。純正の半額ですが評価はいい。こういうときネットは便利だとつくづく思います。だからというわけではありませんが.macのトライアルを始めました。そもそも.macの全体像というかそのアーキテクチャが理解できないと使えない印象です。

Sunday, May 13, 2007

卒業アルバム

今日で団地の仕事の役目を交代しました。この2年間、とりわけこの1年は恊働のダイナミクスと決断の重責の連続で貴重な勉強の機会でした。でも、肩の荷が下りた実感はしばらく後に訪れることでしょう。

高校の卒業写真を実家から持って来ました。卒業したのは昭和51年、1976年のことでした。もう30年も前のことです。卒業アルバムを見ると思い出が次々とよみがえります。その高校は「勉強さえしていればいい」と言わんばかりの校風で、卒業アルバムの個人写真もちょっと不思議です。男子は詰襟の学生服をきちんと着ているものの、腰まで届くような長髪やサングラスの者もいます。女子に至っては“標準服”の他に黒や紺のブレザーやオーダーメイドのセーラー服、なんだかよくわからない上着と、何でもありです。私はその高校に行って人間はなんとおもしろいのだろうとしみじみ思いました。卒業生の消息も然りです。いちばんの有名人物といえば、ポケモンの映画の最後に「スーパーバイザー」として名前がスクリーンに出る彼でしょうか。重度心身障害の子どもの専門医として仕事で時折顔を合わせる彼も同窓生です。みんなみんな、どこで何をしているのだろうと思いますが、自由な校風が生徒ひとりひとりの自己形成にどれだけ寄与したことかと、当時の先生方に敬服するところです。そうそう、毎週5キロのマラソンの授業もその高校の売り物でした。そもそもの発想は「勉強も最後は体力」とのことだったようですが、私はこの授業でマラソン・ハイを知ってトライアスロンへの道を歩むことになりました。文学にどっぷりとつかっていたその頃の私は旧制高校のリベラルな校風に憧れていたこともあって、その高校の自由な校風がたまらなく気に入っていました。私は今もその香りを求めています。

Saturday, May 12, 2007

ソフィー・ミルマン

昨日、探していた本を入手することができました。田中道治・都筑学・別府哲・小島道生編『発達障害のある子どもの自己を育てる〜内面世界の成長を支える教育・支援』(ナカニシヤ出版 2007)で、執筆の赤木和重さんのサイン本です。私が一昨年まとめた高校の特別支援教育についてのレポートでも生徒自身の自己理解の大切さに触れました。発達障害のあるなしにかかわらず、自己理解の在り様はセルフエスティームを大きく左右する重要なファクターです。今、この本を読む時間はありませんが、どのページを開いても私の目は釘付けです。

今日はアテンザでソフィー・ミルマンのアルバム「sohpie milman」を聴きました。ジャズ・ヴォーカルの定番からシャンソン、ロシア民謡まで、ソフィー・ミルマンは太い声でたっぷりと聴かせてくれます。ロシア語の「黒い瞳」も、編曲も演奏も歌も聴き応え十分です。歌詞は黒い瞳の女性に心を奪われた男の語りなのですが、歌詞がわからなくても胸が締めつけられるような曲です。ロシアの厳しい気候や帝政ロシアから社会主義体制に続く抑圧された暗い社会を連想するのは私の思い込みなのだろうか。昨年、イリーナ・スルツカヤがジプシーの曲で演技したときも似た感覚がありました。彼女の容姿と相まってロシアのことが頭を過った次第です。先日はソ連時代の社会主義体制に抵抗したチェリスト、ロストロポーヴィチが亡くなり、ロシアの大地に刻まれた負の遺産に思いを巡らしてしまいました。話はソフィー・ミルマンに戻って、このアルバム「sophie milman」は夜の街のクルージングに最高です。

このGWに実家の畑の草刈りをして携帯で写真を撮ってきました。草刈機で刈って刈った草を一所に集めただけです。携帯のレンズは広角寄りの画角なので広々と見えます。その写真を見ているとなぜか気持ちよくて、畑全体の雑草を刈って丘のようにしてみたいと思いました。ただの雑草野原なのに不思議に気持ちが落ち着きます。

GWにはまた、レンタルショップで「コンコルド」のDVDを見つけました。コンコルドは60年代に開発された古参で四半世紀にわたって音速の2倍で飛び続けた旅客機です。機体はとにかく美しいの一言に尽きますが、コクピットの計器はアナログ然としていて、これでマッハ2で飛ぶのかと唖然としてしまいます。でも、基本設計が優れていたのでしょう。DVDに登場するパイロットや航空関係者の言葉が素敵です。論理的構造が刺激される飛行機云々という表現はとりわけ興味深い。もう一度レンタルしてテロップをメモしておきたい。PowerBookのデスクトップもコンコルドにしてしまいました。

フランクリン・コヴィーで買ったモゥブレイのデリケートクリームを手持ちの革のバインダーに塗ってそのしっとりとした手触りと優しい光沢、そして、なんともいえない香しさにうっとりです。数年前に初めて買ったフランクリン・コヴィーのバインダーも復活、クラシックサイズのイタリアン・カーフもますます愛おしい。仕事で使っているコンパクトサイズの40mmはオフタイムにはやはり重過ぎです。オフタイムのメモには25mmまでのバインダーに無地のリフィルが最適です。まさかのバインダーの使い分けです。

Friday, May 04, 2007

CBR600RR

以前から気になっていたバイクの名前がわかりました。歩道に止めてある車体のプリントからネットで調べるとHONDA CBR600RRでした。特徴はエキゾーストパイプがリアタイヤの真上にあることと、全身が運動神経の塊とアピールする引き締まった小柄なボディと抜群の回旋性能を証明するかのような高い位置のステップです。ライディングスタイルはレースと見紛う前傾です。乾燥重量は166kgですから250cc並み。これでよく走らないわけがない。また乗りたいと思わせるバイクです。その前に大型の免許を取らないと乗れませんが…

中型の免許の試験のとき私が選んだバイクはHONDA CB系直四とVFR400Fの中から後者でした。CB系直四は安定志向で重量感があってエンジンもマイルドということもあり試験で人気がありましたがバイクとしての面白味みがいまひとつでした。一方のVFR400Fはアクセルに敏感に反応するエンジンと軽量なボディでバランスが取りにくいものでした。教習でも後半で使いました。でも、慣れると一体感があって意のままに乗れそうに思いました。その一体感は自転車のキャノンデールのロードレーサー、Saecoレプリカのそれとよく似ています。CBR600RRはさらに一体感があるように思います。血が騒ぎます。

今日は気がつくと本田美奈子の「ニュー・シネマ・パラダイス」が頭の中で鳴っていました。病院の壁の骨髄移植のポスターに彼女の写真が使われていたからでしょうか。私はこの映画を観たことがありませんがモリコーネの音楽は耳について離れなくて、日本語で歌う本田美奈子の歌詞で“事の次第”がそれとなくわかってますます気になる1曲となりました。などといいながら、夜、iTunes Storeでcobaのアルバムを購入しました。音楽遍歴はますます混迷を深めていきます。

Thursday, May 03, 2007

「あぐり」

「あぐり」
朝から所用の合間に古書店に寄って見つけたのがNHK連続テレビ小説「あぐり」のオリジナル・サウンドトラック・アルバムです。1997年放送なのでちょうど10年前の作品です。音楽が素敵でした。このアルバムは組曲版が収録されていて、バイオリンコンチェルト風でとてもおしゃれです。NHKの劇伴でなかったら様々なシーンで使われているにちがいない音楽です。演奏も録音も心が温まる逸品です。その音を聴いていて思い出すシーンがあります。2005年2月に京都市立総合養護学校の文部科学省教育研究開発学校指定研究中間報告会に出席したとき、1日目の会場“みやこめっせ”では開会前にオーケストラ演奏のビートルズが流れていました。現代建築の“みやこめっせ”とオーケストラ演奏のビートルズとの組み合わせは、歴史の街、京都で総合制・地域制の養護学校を再編した革新の取り組みの提案を予感させるフェアな清々しさを伝えていました。そのときの演奏はレーモンドルフェーブルだったかも知れません。「あぐり」のアルバムもそうしたシーンと共通する文脈を感じさせる音楽、演奏、録音です。

Wednesday, May 02, 2007

『うちの食卓』

タエコ・フォルトゥナーティの『うちの食卓 北イタリアの食卓』(白夜書房 2007)が届きました。ブログ「うちの食卓」はどうやって知ったのか覚えていませんが、なぜか縦長ばかりのイタリアの家庭料理の写真に魅了されてしまいました。縦長の写真はまさに「切り取る」センスが光ります。本の縦横比もちょっと細長くてめずらしいサイズです。コメントもウィットが効いていて楽しい。主役の料理はとてもおしゃれだけど気取ってなくて、毎日の食卓を楽しいものにしてくれる身近さを感じさせます。この料理の作り手にしてこの写真を撮るセンスです。この言い回しに妙に納得してしまいます。それにしてもこんな料理が並ぶ食卓は楽しい。素敵だ。そう思うのも、ここのところコンビニの弁当に頼ることが多いからかも知れません。

去年の夏に買った松阪木綿のペットボトルカバーを探していてCRCを見つけて、動きが硬かったラジペンチに差して、留め金が曲がってうまくロックできなくてしばらくはずしていたネックチェーンを直しました。ふだん身につけているものがなくなるともの足りなくなります。でも、ふだん身につけていたくなるものを想うことがあります。ネックチェーンに着けたいもの、それは、ジャンボジェットのタービンブレードを加工したペンダントトップです。十数年前に全日空が作っていたもので機会ある度に探していますが入手できないでいます。この夏は空港のショップ巡りをしようかと思っています。

久石譲の『感動をつくれますか?』(角川Oneテーマ21 2006)を書店の平積みで見つけました。「モノづくりは感性に頼らない!」という帯のキャッチコピーに意を得たりです。技術や技法はどれだけあっても邪魔にならない。むしろ、そうした技術的なノウハウは新しいものを作り出すための肥えた土壌になる。地図は何枚もいるものなのだ。『ハウルの動く城』でテーマの3拍子を聴いたとき、私は「やられた」と思いました。映画を観ていてこんなにも次の音楽が待ち遠しい映画はちょっとありません。

この本で芸術における時間軸の役割についてこんな記述があって興味深い。「本当のところはよくわからない」としながらも「…音楽も文学も映画なども、時間の経過のうえで成り立っているものは、論理的構造を持っているということだ。それに比べて、絵は作品が表現するものが見た瞬間にわかる。瞬時に世界を表現できる力がある。時間の経過を伴わない分、論理的なものより感覚に直に訴える。だから、絵の人は考え方や行動においても、感覚的なものが突出する面が強いらしいのだ。」とあります。瞬時の視覚情報と時間軸上の論理的構造は脳によって使い分けされていて、このコンビネーションがその人らしさを作っている要素のひとつと考えられます。視覚情報が記憶となり、記憶の選択と組み合わせ、つまり、その人なりの論理的構造が生まれる。そこに聴覚情報や生理的な要素、心理的な要素が加わる。音楽はそれら様々な要素に論理的構造を与える。ただ、私はこのところ音楽の時間的要素であるリズムやテンポ、間(ゼネラル・ポーズ)の機能にとくに関心があります。全体の時間もそうです。では、絵を見続ける時間、制作にかける時間そのもの、絵が含む時間軸のような要素は論理的構造とはならないのだろうか。

この連休は晴耕雨読になりそうです。