Wednesday, May 02, 2007

『うちの食卓』

タエコ・フォルトゥナーティの『うちの食卓 北イタリアの食卓』(白夜書房 2007)が届きました。ブログ「うちの食卓」はどうやって知ったのか覚えていませんが、なぜか縦長ばかりのイタリアの家庭料理の写真に魅了されてしまいました。縦長の写真はまさに「切り取る」センスが光ります。本の縦横比もちょっと細長くてめずらしいサイズです。コメントもウィットが効いていて楽しい。主役の料理はとてもおしゃれだけど気取ってなくて、毎日の食卓を楽しいものにしてくれる身近さを感じさせます。この料理の作り手にしてこの写真を撮るセンスです。この言い回しに妙に納得してしまいます。それにしてもこんな料理が並ぶ食卓は楽しい。素敵だ。そう思うのも、ここのところコンビニの弁当に頼ることが多いからかも知れません。

去年の夏に買った松阪木綿のペットボトルカバーを探していてCRCを見つけて、動きが硬かったラジペンチに差して、留め金が曲がってうまくロックできなくてしばらくはずしていたネックチェーンを直しました。ふだん身につけているものがなくなるともの足りなくなります。でも、ふだん身につけていたくなるものを想うことがあります。ネックチェーンに着けたいもの、それは、ジャンボジェットのタービンブレードを加工したペンダントトップです。十数年前に全日空が作っていたもので機会ある度に探していますが入手できないでいます。この夏は空港のショップ巡りをしようかと思っています。

久石譲の『感動をつくれますか?』(角川Oneテーマ21 2006)を書店の平積みで見つけました。「モノづくりは感性に頼らない!」という帯のキャッチコピーに意を得たりです。技術や技法はどれだけあっても邪魔にならない。むしろ、そうした技術的なノウハウは新しいものを作り出すための肥えた土壌になる。地図は何枚もいるものなのだ。『ハウルの動く城』でテーマの3拍子を聴いたとき、私は「やられた」と思いました。映画を観ていてこんなにも次の音楽が待ち遠しい映画はちょっとありません。

この本で芸術における時間軸の役割についてこんな記述があって興味深い。「本当のところはよくわからない」としながらも「…音楽も文学も映画なども、時間の経過のうえで成り立っているものは、論理的構造を持っているということだ。それに比べて、絵は作品が表現するものが見た瞬間にわかる。瞬時に世界を表現できる力がある。時間の経過を伴わない分、論理的なものより感覚に直に訴える。だから、絵の人は考え方や行動においても、感覚的なものが突出する面が強いらしいのだ。」とあります。瞬時の視覚情報と時間軸上の論理的構造は脳によって使い分けされていて、このコンビネーションがその人らしさを作っている要素のひとつと考えられます。視覚情報が記憶となり、記憶の選択と組み合わせ、つまり、その人なりの論理的構造が生まれる。そこに聴覚情報や生理的な要素、心理的な要素が加わる。音楽はそれら様々な要素に論理的構造を与える。ただ、私はこのところ音楽の時間的要素であるリズムやテンポ、間(ゼネラル・ポーズ)の機能にとくに関心があります。全体の時間もそうです。では、絵を見続ける時間、制作にかける時間そのもの、絵が含む時間軸のような要素は論理的構造とはならないのだろうか。

この連休は晴耕雨読になりそうです。

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